朝顔教会と海外宣教−その歴史
朝顔教会は1950年9月に、当時杉並区永福町に居住されたTEAMのジェームス・フレンズ宣教師夫妻、そしてドナルド・マカルパイン宣教師夫妻、バーナード・ホーリツ宣教師夫妻の協力のもと、「朝顔園」の倉庫を借りて伝道活動をスタートした教会で、初期から海外宣教のビジョンがありました。外に目を向けると、1951年には、高校生聖書伝道協会(Hi-B.A.)や太平洋放送協会が(PBA)が設立されています。
早くも1951年春には、ジェームス・フレンズ宣教師夫妻は、静岡での開拓伝道に着手し朝顔教会を離れ、また、バーニー・ホーリツ宣教師は、PBAの責任者となり、1953年には両方の奉仕の限界を覚え、朝顔教会の奉仕を止めるのではないものの、指導の責任から離れることになりました。その後は、ほぼドナルド・マカルパイン宣教師を中心に伝道が進められました。
初期の朝顔教会にとっての大きな祝福として、開拓伝道の進展に寄与したのは、当時日本に来て伝道をされていた多くの宣教師が英語クラスを開き教えていたことで、特に、Hi-B.A.のケン・クラーク宣教師、ジョン・マイヤー宣教師等が、大勢の高校生や学生を朝顔教会に導きました。その中に中田智之兄がおられました。宣教に燃えた高校生等が卒業するや、彼等は世界宣教に目を向けられ、ワールド・ミショナリィー・フェローシップ(WMF)を立ち上げ、海外宣教の情報を広く求めました。その中心となったのが、太田和功一兄、福田崇兄で、他に稲葉裕兄、中田智之兄、稲垣博史兄、増子知江姉がおられ、そのほとんどが牧師や宣教師となりました。
また、PBAに務め神学校に通われた尾崎一夫兄(現在「アンデスの声」宣教師)は朝顔教会の教会学校の教師をし、同じく横内澄江姉(故人:元アンテオケ宣教会の宣教師)は朝顔教会に住み、PBAに通っていました。その後お二人とも日本の海外宣教の草分け時代に宣教師となり、朝顔教会も支援宣教師としました。このように、朝顔教会はHi-B.A.、PBA、海外宣教師との間で密接な協力関係が続き、今日に至っています。
1957年に休暇から帰られたマカルパイン宣教師は、将来の教会成長のための必要を示され、永福町から現在地に移転して新会堂を建設し、9月に完成を見るや、1週間後には長野県の岡谷市での開拓伝道に移りました。そこで初めて日本人牧師の神田茂師が招聘されました。翌年の1958年には早くも羽鳥純二牧師が二代目牧師として引き継ぎました。
1961年1月7日の礼拝での羽鳥純二牧師の説教(ヨエル書2:28〜29)を聞いた20人程の若者たちが献身へと導かれました。その中に元井荻福音キリスト教会の牧師となられた山口渚兄、そして今もブラジル宣教の第一線で働かれる中田智之兄や後に南米宣教会の事務局長をされた稲葉裕兄等がおられました。それを機に、火曜日の夜に献身者訓練コースが生まれ、教理や実践神学の学びを通し将来に備え、また4月には献身決意者でのエレミヤ会が発足し、毎月一回の集会で献身の証しをしたりして励まし合っていました。
1961年8月、羽鳥明先生が南米視察の報告会を開かれ、スライドを見せながら南米の日系人の生活や伝道の働きの現状を語られ、献身のアピールがなされました。そこで中田智之兄は召命を与えられ、献身を決意します。行動すばやい先生は、夜間の上智大学でのポルトガル語講座を受講されるなどをして、ブラジル宣教の準備を始めました。
1965年には、羽鳥純二牧師より、「先ず現地を見て来て、母国語で神学を学び、献身者と結婚してブラジルに行きなさい」との指導を受け、大学在籍中の1965年にブラジル視察旅行を行い、1966年4月には当時浜田山にあった聖書神学舎に入学、1969年3月10期生として卒業しました。
一方、朝顔教会も羽鳥純二牧師の放送伝道への転任により、1965年4月に井出定冶牧師が蕨福音自由教会から招聘されました。井出牧師は教会の組織についての課題がある中で、すぐさま宣教師を派遣する体制を整えることが迫られ、1966年4月に「海外宣教部」を設置、これまで活動していたエレミヤ会もここに吸収されました。そして、海外宣教の原則やあり方を学びつつ教会員への参加を呼びかけました。同時に、井出牧師の福音自由教会での経験を踏まえ、さらにHi-B.A.やPBA関係の宣教師らの支援を検討し、教会としての支援宣教師を決め、これが今日まで続けられています。
1968年4月、卒業を控える中田智之兄のブラジル宣教派遣宣教師としてのさらなる準備のために、これまでの海外宣教部とは別に、「海外宣教企画委員会」を設置しました。井出定冶牧師を委員長に、増子知江伝道師他兄姉数名での委員会を構成し、翌1969年2月の総会で派遣決議や派遣体制や派遣の事務局設置等の話し合いが重ねられました。朝顔教会が派遣母体となる事務局創設には、TEAMやOMFの宣教団体の資料が参考になりました。この総会で、中田智之兄を朝顔教会派遣宣教師とすることを賛成多数で可決、3月11日にこの企画委員会を改組し、朝顔教会に南米宣教会の事務局を設置しました。
中田智之宣教師は、卒業後四国高松での開拓伝道をし、宣子姉と結婚されて、1970年1月25日に朝顔教会で中田智之・宣子宣教師は按手式に臨み、1971年4月29日横浜港から第一期ブラジル宣教に出発しました。
1966年4月に海外宣教部が設置されてから、その中心的な役割を担われたのは、エレミヤ会から中田智之師とコンビを組まれた元朝顔教会会員の稲葉裕兄でした。稲葉兄は1970年代中頃まで朝顔教会に在籍され、初代の南米宣教会の事務局長をはじめ、長く海外宣教部の部長を努められました。住まいを所沢市に構えてからは朝顔教会を離れ、地元の教会に籍を移し、医療者の団体やOMFの日本委員会の運営委員として奉仕をされました。
当時の海外宣教部の部員はほとんどが女性で構成され、宣教師の書かれた本を読み分かち合ったり、年に3回の宣教ニュースの発行、宣教師への寄せ書き、クリスマスカードの送付、帰国宣教師を招いての宣教の夕べ、そして祈祷の時を持ちました。出席人数も3名から数名での小さな集まりであったようです。そこで、1976年4月から、部員の要請を受け、担当役員が付くようになり今日に至ります。教会内でアピールをするうちに、男女学生の若者が多く参加をするようになり、一時は海外クリスチャン男性、女性も加わりとても活発な集まりになりました。現在は毎月第3水曜日に支援宣教師の先生方の課題を確認し祈る「海外宣教祈祷会」、毎月刊となった宣教ニュースの発行、そして毎年6月を「海外宣教月間」として、帰国中の宣教師の先生をお招きしての礼拝・集会などを、10名前後のメンバーで企画・実施しています。
以上が朝顔教会の海外宣教の歴史の概要です。アメリカのTEAMの宣教師によって開拓された朝顔教会は、常に宣教師の影響を受けつつ、その仲間に助けられ、自然と宣教が国内、海外とに目が向けられ、その折々にかなった日本人牧師の牧会配慮とバランスにより、神様の導きとによって宣教が国内に留まらず、海外にも同じように向けられ今日に至っていることを覚えさせられています。