2022年イースターのごあんない
- 「死んでも生きるいのち」 -

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」 (ヨハネ11:25-26)

新しく変えられたい

手塚治虫氏の作品に「火の鳥」があります。この火の鳥が人間に「永遠のいのちが欲しいか」とささやきかける場面があります。その問いに対して人間は、「永遠のいのちなど欲しくない、このままのからだでこのままの心で永遠に生きたくない」と答えます。その通りだと思います。多くの人は、今の醜い自分に耐えられず、別な人に生まれ変わって生きたいと思うことがあるのではないでしょうか。

キリストの復活がないなら

聖書は、「キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。― 今もなお自分の罪の中にいます。」(Tコリント15:14,17) とあります。キリストの復活がないなら、キリストを信じることは実質のない、無駄な、偽りの役に立たないものだというのです。もしそうなら、キリスト教は二千年以上の歴史に影響を与え、世界中に広がり続けることはなかったでしょう。むしろ、今もなおキリストの復活のいのちに生かされている人々によって良い変化がもたらされています。キリストが言われる「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」と言ういのちは、私たちの人格と生き方を「良いもの」、「尊いもの」に変える「いのち」なのです。

キリストのいのちが私たちを変えてくださる

 「良いもの」とは、「高価で、価値あるもの」という意味です。キリストの復活のいのちは、私たちを神の人格を映し出す者へと変えてくれるいのちです。神の人格は「犠牲の愛」において頂点を極めました。それが、キリストの十字架であり、「人が自分の友のために命を捨てること、これより大きな愛は誰も持っていません」(ヨハネ15:13) と言う愛です。神の聖なる光に照らし出される時、神様の前に犯した罪の全ては表され、裁かれ、刑罰を受け、滅ぼされるしかないのですが、そんな私たちのためにキリストが身代わりとなって十字架につけられ、神様のさばきと刑罰をその身に負い、死に、三日目によみがえらされました。「ここに神の愛があります」(Tヨハネ4:10)。このキリストの十字架による神の愛の故に、キリストの復活のいのちが私たちにも与えられ、神の御前に大胆に近づき、恵みと助けを受けて生きる者とされます。その時、私たちは自分のことだけではなく、他の人を顧みる者へと変えられます。そして、キリストの愛を表す者へと私たちを変え、互いを高価な存在とし、尊敬し合う心が養われ、表現されていきます。

もう一つ、「死んでも生きるいのち」は、聖なる神に結び合わせるいのちです。それは神のことばに教えられ、神の知恵に導かれ、神と共に生きるいのちです。紀元4 世紀の聖アウグスチヌスは「告白」の中で「私は肉欲に支配され荒れ狂い、全くその欲望のままになっていた」と述べ、欲望に支配されている自分に失望し、嘆きながら庭を歩いていました。すると「取りて読め、取りて読め」という子供の声を聞き、急いで友の席に戻ると、パウロ書簡が開かれていました。その時のことを次のように言っています。「私はそれをひっつかんで目が落ちた最初の個所を黙読した。『遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。キリストを着なさい。そして、欲望に生きる生活を止めなさい』を読んだ。その時、確信の光が私の心に注がれ、疑惑の全ての影は散らされた。」と告白し、彼の人生はキリストのいのちを表す人生へと変えられたのです。あなたも神と共に生きる、「死んでも生きるいのち」を受け、日々新しく変えられて歩む者となりますように。

キリスト教朝顔教会牧師 三浦春壽

イエス・キリストの受難を思う夕べ

2022年4月15日(金)午後7時よりYouTube配信いたします

※配信は終了しました

聖書の御言葉と、讃美と、パイプオルガンの調べにより、イエス・キリストの受難を覚えるひとときです。(礼拝として行います。)

イースター礼拝

2022年4月17日(日) 午前10時半よりYouTube配信いたします。

イースターを記念して祝う礼拝です。

※配信は終了しました