2016年イースターのごあんない - むだのない人生 - ※終了しました

ですから、私の愛する兄弟たちよ。
堅く立って、動かされることなく、
いつも主のわざに励みなさい。
あなたがたは自分たちの労苦が、
主にあってむだでないことを
知っているのですから。
-コリント人への手紙第一 15:58 -

 親しい方との別れ。

大切な息子を交通事故で失った父親は「残念、無念」と繰り返しました。彼の嘆きのことばに、死の残酷さが痛烈に伝わり、人の無力さを感じさせられます。人が死んで終わりであるなら、これほど残念、無念で、空しく、実質のない人生はありません。しかし、聖書はイエス・キリストが私たちの罪の身代わりになって十字架で死んで後、三日目に復活されたことを伝えています。それを信じて生きているのがクリスチャンであり、キリストのことばに従って生きる者です。

 キリストの復活によって犠牲はいのちになります。

キリストのことばに従うことは、自己犠牲が伴います。自分の欲望を満足させようとせずに、自分が損をし、傷ついても、神と人とに仕えようとする、犠牲を惜しまない生き方に価値を持ちます。長谷川保氏は、一人の結核患者を助けようと病舎を建て、後のベテルホームとなりますが、結核に対する無理解と風評から人々に嫌われ、反対運動に会い、医療施設の運営に苦労しました。そのような苦労と犠牲を厭わずに続けさせたのは、神と人の為に奴隷のようにして仕える、キリストの弟子としての信仰でした。彼のこの働きは、社会福法人聖隷福事業団となり、日本で初めて末期ガン患者のための浜松市リハビリテーション病院となりました。今も昔も、キリストのために自分のいのちをさえ惜しまず捧げて仕えた人々によって世界中に神の愛の御業が進められ、広げられています。それは、キリストが三日目に復活され、このキリストにあって、何一つ無駄でないことを知っているからです。

 復活は人の人生を新しく変えます。

キリストが復活された故に、キリストのいのちを受け、日々新しく、キリストに似た者に変えられる人生があります。キリストが復活されなかったら、私たちはみな自分の罪の中に留まり、自分がしたいと思う善をすることができず、したくない悪を行い続ける人生に留まります。しかも、罪から来る報酬として死を迎え、死後にある神の裁きを知る故に、死を恐れます。それ故、死による別離は、悲しみであり、恐れであり、残念、無念なのです。しかし、キリストが復活された故に、目に見えませんが生きておられるキリストと共に歩む生き方が始められます。それは、キリストが教えて下さった神のことば、聖書を通してキリストを知り続けることです。そのことばに生かされる時、キリストが共におられることを経験します。その時、不平不満、責任転嫁、敵意や憎しみから、感謝と喜び、犠牲伴う愛を表す生き方へ変えられます。イエス様は言われました。「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:63)。この言葉に生かされて、奴隷商人だったジョン・ニュートンは「アメージング・グレース」の歌を作り、それが世界中で歌われ、キリストの復活によって生きる人生を伝えています。

キリスト教朝顔教会牧師 三浦春壽

イースター礼拝

3月27日(日) 10:30〜12:00

イースターを記念して祝う礼拝です。教会が初めての方もぜひお越しください。

イエス・キリストの受難を思う夕べ

3月25(金) 19:00〜20:30ころ

聖書の御言葉と、讃美と、パイプオルガンの調べにより、イエス・キリストの受難を覚えるひとときです。(礼拝として行います。クリスチャンの方には、聖餐式があります。)